大いなる回帰

グレート・リセットの時代

大いなる回帰と再生のへの道

地球温暖化は、今まさに待ったなしの崖っぷちに立たされているといっても過言ではない。

先日、CPO26が開催された。しかし各国の首脳が一同に集まって地球温暖化問題に関して話し合いが行われたが、具体的な進展を確認することはできなかった。各国の首脳が集まっておきながらどうしてこれほどまでに顕著になってきた地球規模の気温上昇、両極の氷山の崩壊、海面上昇、大雨被害、巨大台風などあからさまに世界中で多発している現象に対していかにも切迫感を感じることはできなかった。

しかし、刻一刻とその現象は深刻の度合いを増していることはあからさまである。国連の発表において地球上の兵気温が4℃上昇すると地球上の生命は極めて深刻な状況に陥ると言われていて、2000年に入って早くも3.6℃も上昇してしまっている。あとわずか0.4℃の上昇でわれら人類をはじめとした、生命体は果たしてどうなってしまうのだろうか?

今こそ、各国が国境を越えて力を合わせ、手を携えてこの局面に臨まなければならないはず何になぜ具体的な動きに出ないのか、それが不思議でならない。私たちはもう政府のリーダーにそんな局面を委ねているわけにはいかない。

低炭素、脱炭素と唱っている割には、地下資源依存からの脱却は、政府目標がせいぜい2035年までに46%削減に留まっている。

今こそ人類すべてが、自分にできることを今日からでも初めて行かなければならないのではないだろうか。

もう発展も進歩もいらない

私たちは、イギリスで端を発した産業革命以降飛躍的な経済発展を遂げた。しかしその高度経済発展の陰で取り返しのつかない過ちを幾つも冒してしまったことを、今現在人類はようやく認識し始めてきた。というよりも認識せざるを得ない状況に追いやられたといっても過言ではあるまい。

私たちの身の回りでも肌に感じることがいくつも起こっている。あなたは自分の子供のころからすると、夏の暑さは今まで体験したことのない次元になっていることを。また大変したこともない集中豪雨被害を。

明らかに以前とは違うと気づいた人はそう少ないわけではないと思います。以前は冷害でなかなかお米が作れなかった北日本がお米の名産地になり、ブドウの産地もどんどんと北上し岩手県でも栽培が盛んになっていている。逆に高冷地のリンゴ栽培で有名だった信州リンゴが夏の高温障害で生産が順調にできなくなったというニュースをよく耳にします。

それは明らかに地球温暖化、気象変動激化だと言えます。何にどうして直ちにエネルギー資源が石炭、石油からどうして直ちに再生可能エネルギーに置き換わることができないのだろうか?どうして部屋の温度を2℃下げることができないのだろうか?

グレート・リセットしよう・ストレスフリー

世界各国の首脳が集まって、話し合いをしなくてもできることが山ほどあるはずである。私たちの暮らし方を100年、200年前に戻せば済むことである。

それって、そんなに難しいことなのだろうか。1万年前に戻れと言っているわけであるまいし。自分たちの親の世代、おじいちゃんおばあちゃんたちが暮らしてきた生き方をまねればいいだけのこと。最新技術も巨額の予算も何も必要ない。セントラルヒーティングからコタツ、薪ストーブに変えるだけ。大型のトラクターから牛、馬に変えるだけ。飛行機や新幹線に乗る代わりに歩いて東海道五十三次を旅すればそれでいいこと。今の現代人の方が昔の人よりも数段長生きしているのならば、東京、大阪を53日かけてももっと人生には余裕があるはず。

冷凍食品、レトルト食品を買って食べなくとも漬物と干物、みそ汁あれば大抵の食もまかなえるはず。しかし皮肉なことにこんな便利で快適な現代社会に生きている人の方が、昔よりも病気を患っている人の率が圧倒的に多いということ。昔は生涯現役生活で、長く床に就くこともなくあっけらかんに逝く人が大抵であった。現代社会はやはり何かおかしいと思うのは私だけなのだろうか。決してそう考えている人は私だけではないでしょう。

みんなで、100年までの親、祖父母の時代にまず戻ろうではありません。それをかっこよく言えば、グレート・リセット大いなる回帰だと思います。

スローライフな暮らし

現代社会は常に競争の中にいるようなもの。

一所懸命勉強して、いい大学に入学して、大企業に入社して、会社のライバルを抜き去って出世街道をひた走る。そして偉くなって、お金をいっぱいも行けて、安定した暮らしがしたいと思っている人の多いこと。しかしそれは過去の幻想なのかもしれません。

そんな生き方の中で、何が見えてくるだろうか?仕方ないんだ、みんなそうやって立派になっていく、社会はそんな甘いもんじゃない、だらだら暮らしていては取り残されて堕落するのがおちだぜ。

そう思って生きている人の多いこと。しかしそれはあくまでも他人の目を気にして生きているだけのこと。自分は自分だと割り切ってしまえば、そんな呪縛など吹っ飛んでしまうはず。

わがままではなく我がまま。いいじゃないですか、他人から何を言われようともどう思われようとも。自分らしさを最大限に活かした暮らしをしてみても。逆に現代社会の普通って何なんですか?そんなに素敵なものなのでしょうか?そんなに高級マンションの暮らしが素敵なのでしょうか?

そのために毎月高い住宅ローンに追われ、それを補うために必死に寝る間も惜しんで働いて、家族を振り向くこともなく、まるで社会の奴隷のように生きてく。それをよしとして生きてくことに否定はしません。

しかし私はそうは思いません。自分らしく生きていきたい、たった一度の人生素敵な人生でありたいと考えます。やはり心に余裕をもって生きたほうがきっと楽しいはず。私は一歩踏み出します、スローライフに、グレート・リセットに。私にとっての大いなる回帰と再生の旅に出てみます。大海原に飛び込むファーストペンギンのように。

昔のような暮らしに戻るだけ

そんな大それた革命を起こそうとしているわけではありません。これからクーデターをおっぱじめようとしているわけでもありません。都会を捨てて山奥の田舎に暮らすだけのこと。ただそれだけのことなんです。黙っていても環境が変われば、暮らしぶりも変わるはず。第一いつも追い立てられるように生きてきた生き方が変わる。だってそこには追いかける人がいないから、追い立てるものが存在しないから。

100年前、いやまずは30年前に戻ってみよう。私がまだ子供だった頃に。曲がりくねった細い砂利道のわきで道草しながら学校から帰ったあの道を探しに行こう。そのくらいからなら自分でもできそうである。

自分自身の時間は自分だけのもの。誰にとやかく言われるものではない。自分の大切な時間を思いっきり大切にしていこう。それが私のグレート・リセット。

昔の野菜作りとミネラル

昔はほとんどの自分たちで食べるのものは自分たちで作って賄ってきた。それが特別な暮らし方今でいう自給自足なのだが、何ら当時は特別なことではなかった。第一今のようにスーパーも八百屋もそこには存在しなかった。それに現金収入もなかったし、働いて稼ぐところもなかった。だからそれが当たり前だったのである。しかし現代社会ではそんな当たり前がかえって当たり前のことではなく、奇異なことになってしまっているからそれこそ当たり前じゃないのかもしれない。

いざ野菜を作るといっても昔は肥料(いわゆる金肥)というものがなかった。村には草刈り場という場所があり、村人はせっせと秋に舞い落ちた枯葉や小枝を集めて、堆肥を作った。それと田んぼのわらと混ぜてぼかし堆肥を作って畑に戻していた。一年収穫して疲れた畑の土に対する恩返しのようなものである。収穫物が採れば分、また畑に新たな有機物を戻してあげるのである。Benefit from nature to natureである。そのことで毎年豊かな自然の恵みを得て暮らしていた。決して無理はしなかった。必要以上に欲張て栽培面積を増やしたり、土が疲れるほどに二期作をしたりもしなかった。だから自然は繰り返されていた。そしてそのやり方は大いなる恵みも与え続けてくれていた。

そのころの土は生きていた。落ち葉や小枝でつくった堆肥には有機物がふんだんにあり、小動物に住処であった。ミミズ、モグラ、昆虫の幼虫など。その小動物の生態系を底支えしていたのが土壌微生物、そして雑草の根。あらゆる動植物の生態系は、土壌環境において連環を成していた。いわゆる生命連環である。その環はしっかりと結びついて土壌中に眠っていたミネラルを錯体化して人体にも容易に吸収できるように変換してくれていた。だから豊かな土壌生体系のおかげで、その当時の野菜には十分すぎるミネラルが含まれていた。

しかし時代の変遷に伴って、より楽をして、より多くの農作物を得ようとして農家は化学肥料を使うようになった。そのデメリットははるかにメリットを上回っていたことを自覚している人が少ないのが事実である。使われ始めた化学肥料は農作物に病気と害虫をつれてきたのである。今までには見たことのないほどの害虫の群れ、大変したことのない野菜の病気が蔓延しだした。そこで次に登場したのが化学農薬である。ある種化学肥料と農薬は一対となって農家の間に浸透し続け、あっという間にそれが常識のようになっていった。しかしそこで陥っていったのが土壌生態系の崩壊であった。土壌生体系の崩壊は、野菜から土壌中に眠っていたミネラルを奪い取ったのである。

だからそんなやりやり方でつくられた野菜にはほとんどミネラルが含まれることはなく、今私たち現代人が食している普通に流通しているほとんどの野菜はいわゆるイミテーションフーズになってしまったのです。見栄えはよく緑緑していて大きさは立派でキュウリはまっすぐ、キャベツはずんぐりして、トマトは年中食べられる。しかし昔ながらの癖のある野菜はなくなり、なんとも水っぽく味がない。それがミネラルのない野菜の特徴なのである。

だから私たちが食べている新鮮野菜は、はっきり言って化学肥料と農薬を食べているのかもしれません。

私は、自分の食べる野菜を自分で納得のいく方法でつくって聞きたいと考えています。ミネラルがたっぷりと含まれた野菜を毎日ふんだんに食べられる暮らし、それが私の求める究極のスローライフです。

ミネラル豊富な新鮮野菜を食べて、ストレス社会から解放されて、自由奔放に生きてさえいれば、いつまでも元気でいられる、健康でいられると思います。いつまでも健康で生きていたいですからね。